江戸の美学・精神性

粋(いき)・野暮(やぼ)・気障(きざ)

江戸文化というものは、型の文化と言われやすいが、形式主義とは全く違う型の文化であって、型に従っているように見えながら、中で常に型にとらわれることを避けようとしている動きがある。つまり、逸脱もせず固定もせずという、要を押さえながらも揺れ動き続ける、そういう精神が重要で、固定してしまったものを野暮という。

野暮の反対として粋があるわけだが、野暮にはならない、誰が見ても好ましいすっきりした形というのは別にある。しかし、それは粋とは少し違う。どちらかというと、粋は野暮に近いところにある、一歩違うと野暮になってしまう、そういうあやういところに粋は存在している。したがって、野暮との距離がものすごくあるわけではなく、だからこそよけい難しい。
粋と野暮の間に、キザというものがある。一番嫌われていたのがキザであって、キザになるくらいなら野暮でいたいというところがあった。キザというのは気障と書く。気障なものはギシギシきしむ枕であるというようなたとえもある。気障というのは、服装が決まりすぎるのも気障。かっこいい言葉が決まりすぎたときも気障。つまり、あまりにも場にマッチしすぎるというのが気障の最たるもの。
 気障から外すということが、粋の第一条件で、フェイントの技術が一番重要なポイント。近代以降とか西洋の粋、シックなあり方というのは、わりと決まってしまったことをほめているが、きっと江戸の人たちが同じ状態に接したら、たちまち悪口雑言を浴びせかけたのではないかと思う。
また、会話についても粋な会話というものは、「そらし方」の技術。「きまり台詞」を言わない、つまりフェイントの繰り返し。つぼにはまらないというのが大事な秘伝。常につぼの縁に立って、入らないように足を踏ん張っている。言葉のやり取りも、中心は分かっているのだけれど、わざと外して楽しむ。
 野暮より気障が嫌いというのは、重要なこと。野暮はちょっとした工夫で粋に転化することが出来るが、気障は永遠に気障のまま。
 粋、野暮、気障は、そういう不思議な相互関係というか緊迫関係がある。したがって、いちがいに粋がよくて、野暮が悪いというように江戸の一般の人々は考えていなかったはず。
 何が粋で、何が野暮かというよりも、その時の環境と個の状態、その調和の具合にあると思う。野暮にも粋にも多数答えが用意されていて、ある時、粋であったものが一日違うと野暮になってしまうということもある。
粋の一番重要な点は、常に駆け引きがあること。答えがない、答えを隠す面白さというか、何々かもしれない、何々とも考えられるし何々のようでもある、というように受け手によっていろいろ変わるということが重要であって、誰が見ても同じ感想しか出ないものは粋でない。
「江戸へようこそ」杉浦日向子 筑摩書房


つかみどころのない、この「粋」なるものを、私たち六雁はスーパー歌舞伎ならぬ“スーパー割烹”で追究していきます。
ただ、粋はいつも過去形で語られるそうです。生身の人間や店に対して語られる言葉ではなく、「あの人は粋だったね」、「あの店は粋だったよね」という具合に、亡くなってから、そう語られるのだそうです。粋というのは瞬間、残り香のようなもの。まさに伝説でしょうか。
六雁にお越しいただいたお客様の思い出の中で、六雁が発酵していって、「あれは粋な時間だったなあ」、「粋な職人だったな」、「粋な語らいだったな」、そうおっしゃっていただけるよう精進します。
しかし、その時は六雁は存在していないという理屈になりますが・・・(笑)。

参考資料

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